特別寄稿

 

【2018年のインバウンド推計値】

県別宿泊者数 県別祝迫者伸び率 1月16日、まだ確定値ではないのだが、日本政府観光局(JNTО)は、2018年の年間インバウンド数推計値を発表した。これによると、同年の1月から12月までは、前年比8・7%増の3119万1900人で、最高記録の更新だ。が、2015年の47・1%増以来、伸び率は引き続き鈍化傾向にある。
訪問者が最も多かった国は中国で、13・4%増の883万100人。次が韓国で5・6%増の753万9000人だ。そして、台湾が4・2%増の475万7300人、香港が1・1%減の220万7900人、米国は11・0%増の152万6500人、タイが14・7%増の113万2100人である。7桁なのはこれだけだ。
増加率が最も高いのはベトナムで26・0%増の38万9100人。次がロシアで22・7%増の9万4800人である。ちなみに、英国は7・6%増の33万4000人にとどまっている。
ところで、同期間のアウトバウンド(日本人の海外旅行)は6・0%増の1895万4000人となっている。これはサービス貿易の観点では輸入に当たるが、昨年2017年の1788万9300人から100万人以上も増え、日本の国際収支の中の旅行収支にマイナスの影響を及ぼしている。
三重県の状況はどうか?
2018年7月に公開された国交省と観光庁の宿泊旅行統計調査報告(平成29年1~12月)によると、三重県の延べ宿泊数は831万9100人泊で、47都道府県中では20位なるも、伸び率は全国最低のマイナス10・59%であり、インバウンドの延べ宿泊数も33万4230人泊で27位、伸び率はマイナス5・01%だった。JNTОによると、日本の2017年のインバウンド数は2869万1073人だったので、概ね86分の1といったところである。
なお、2018年6月7日の日経新聞によると、2017年に三重県を訪れたインバウンドは、伊勢神宮(内宮+外宮)こそ10万人は超えたものの、ミキモト真珠島は約3万3000人、伊賀忍者博物館は約2万9000人だった。2018年はどうだっただろうか?
日本の旅行収支に大いに貢献できるぐらい、外国人旅行者に訪れてほしいものである。
(O・H・M・S・S「大宇陀・東紀州・松阪圏サイトシーイング・サポート」代表)

そして、阿鼻叫喚と化した

(前回からの続き)
「火事だぞーっ」、「火の手が上がったでー」と声があがった。北の方、榎の下方角で煙が出た。南側のクリーニング店の方からも黒煙が上がった。
「あっちもこっちも火事やさ。まごまごしていると焼け死ぬ」。山田さんの声でみんな防空壕から這い出した。
藤堂家士族の屋敷町として津市内でも最も高級な住宅地であった玉置町、北堀端の町にあった門構えの家々は屋根がみんな地べたに落ち、瓦が乗っているのは数えるほどしかない。その低い屋根のあちこちからも炎が吹き上げていた。
 山田さんらは、吹き飛ばされた隣の土蔵に押さえられるようにつぶれた我が家の屋根を踏んで逃げた。安濃川へ最短距離の西の方は、榎の下から中新町、西新町にかけてゴーゴーたる火の海。仕方なく北の愛宕山遥拝所の土手に向かった。
夢中で逃げる道々は、この世の終わりを思わせる凄惨な場面だった。内臓が飛びだした人が防空壕の入り口を這いまわる。丸太のような人間のちぎれた胴体。上半身だけの死体…。
「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」、妻の千代さんがつぶやきながらついて来る。5メートルから10メートルおきに直径7~8メートルもあろうかと思える爆弾でできた穴。ひどい所には穴と穴が重なり合うほど接近していた。穴の回りは10メートル四方が掃き清めたように何もない。
ゾロゾロと北へ向かう人間の群れ。爆風の風圧でぼろぎれのように千切れた衣服をまとった人間の群れ。赤ん坊を背負った女がコジュケイのようになぎ倒された家屋の廃材の間をくぐって逃げていく。その赤ん坊には頭部がついていなかった。
 ようやくたどりついた遥拝所の土手。拝殿も前の広場も怪我をおった人、人、人の群れだった。広場に掘ってある大きな防空壕では醜い人間の争いがくり広げられた。「○○町内の防空壕だで、よその者ははいれんぞ」 「なっともならんのやさ。早い者からはいってもえやないか」。
その回りには何百人もの、物を言わない重傷者たちが戸板に乗せられて横たわっている。警防団や学徒らによって後から後から血まみれの重傷者が運ばれてくる。
「またグラマンがくるそうな」、「もう南の方がやられとる」という流言デマが飛び交う。人々の群れは川の土手下や防空壕の入り口に殺到した。修羅場であった。
「とにかく安東村へ行かにゃ」、山田さんらは御山荘橋を渡ろうとしたが橋が落ちていた。上流の三本松橋を渡ろうとした正武君は御山荘橋のたもとに倒れている怪我人の中に母校の津中の帽子を見た。片腕が吹っ飛び、わき腹を破られて虫の息の下級生だった。そばにリヤカーがグニャグニャにつぶれていた。
「おい、大丈夫か」、「大丈夫です。一年○組のミキです。もうだめです。家に知らせてください」と、はっきり答えた。「どうしてこんなところに来たのか」「荷物を疎開しての帰り、ここで…」とまで言うと、こっくりうなずくように正武君の腕の中で息を引き取った。
山田さん一家は三本松橋を渡って安東村河辺の荷物疎開先へ向かった。
 山田寛さんの二男、正孝君(12才)、三重師範学校(現在の三重大学教育学部の前身)一年生、は、24日の爆撃の第1弾が落ちた三重師範学校の鉄筋3階の教室で級友4人と雑談をしていた。ガガーッという爆弾の落下音、すぐさま机の下にもぐって伏せた。
すると、下から持ち上げられるような衝撃があった。体の上に窓枠やガラスが飛び散った。切れ間をぬってころがるように地下1階の防空壕に入った。十数人の学生、職員らがいた。
「ここが狙われとんのやさ、逃げな死ぬ」「いや、逃げてもなっともならん。みんなおんのやで死ねばもろとも、仲よう死のう」。
半地下の防空壕の空気穴から爆風が猛烈な勢いで吹き込んでくる。防空壕全体がガタビシと揺れ動く。
「ここで最期かもしれん」、正孝君は家族の顔を思い浮かべた。数十分(そう感じた)続いていた爆撃は止んだ。三階建ての屋上に上がった。校舎の西側に6棟並んでいた2階建ての寄宿舎は全壊していた。付近の町は砂塵と煙に包まれている。
玉置町の我が家の辺りからはモクモクと黒煙が渦巻いて上がっている。
「帰らねば」、下へ降りかけたが、一階玄関付近は、降って湧いたように西隣の西堀端町付近の負傷者が所狭しと並べてあった。
「元気な者はけが人を運べ」と上級生の命令。けが人の一人をタンカに乗せて級友と二人で病院へ運んだ。西堀端の道路は目をそむけたくなる阿鼻叫喚の巷と化していた。
「病院へつれてって」、腸が飛び出した母親がザックリと頭を割られた子供を抱いてにじり寄ってくる。また、死んでいると思った人がニューッと手を伸ばしてタンカにつかまる。
「山田、走ろう」、後ろの級友の怯えた声。瀕死の人たちの目がタンカを追う。遺体はほとんどが全裸。時折タンカをおろしては布団切れを拾って若い女性の遺体にかけてやった。
「海ゆかばみずくかばね…」、歌いなれた歌詞が口をついた。だがメロディーは出てこない。歌詞はきれいなイメージを与えたが、いま目にする町々の光景は歌のイメージとはほど遠い惨たらしい骸の町だった。
「歌は嘘だ。嘘っぱちだ」、重いタンカ。必死で病院の看板を捜す自分の頬が涙で濡れていた。
     (次回に続く)

全曇で爆撃目標を津市に変更    雲 井  保 夫

アメリカ軍の天気予報では名古屋地方は、この日は高度5000メートルに高層雲、9600メートルに巻雲があり、30パーセントの曇天ということであった。
しかし、いざ日本近くまで来ると、2600メートルから9000メートルにかけて雲の層があり、全曇、つまり、すき間が全くない100パーセントの曇りであった。これでは目視による照準爆撃はできなかった。それで、目視照準爆撃地をそれぞれのレーダー照準爆撃目標地に変更することになった。津地区にこの日の午前5時48分に「警戒警報」が発令された。午前6時32分には「空襲警報」が発令され、けたたましいサイレンの音が鳴り響いていた。
第314爆撃航空団所属のB─29の爆撃機41機が午前10時17分から津市市街地に対して、高度1万5800~1万8600フィートからAN─M64、500ポンド〔約250キロ〕通常爆弾1216発を投下した。その数1120発である。10時54分で全弾投下し終えた〔作戦任務第289号〕
津地区が全曇ということで、津海軍工廠の爆撃はできなくなった。それで、同爆撃航空団は第1レーダー照準爆撃目標地の津市街地を午前10時38分から爆撃しだした。
爆撃は「レーダー直接同時方式」でなされた。まず34機のB29爆撃機が投弾した。次に編隊構成に遅れた4機のB29爆撃機が投弾した。午前10時54分に爆撃は終了した。 この爆撃でAN─M56、4000ポンド〔2トン〕軽筒爆弾が296発、AN─M64、500ポンド〔250キロ〕通常爆弾が1216発投下された。

 一方、名古屋地区も全曇のため目視照準による爆撃ができず、第1レーダー照準爆撃目標地の津市街を爆撃すべく飛行の針路変更をした。75機のB29爆撃機が午前10時38分に爆撃を開始し、わずか16分で爆撃を完了した。攻撃高度は6000~7500メートルであった〔作戦任務第289号〕
第313爆撃航空団所属のB29爆撃機は津市街地を爆撃後、伊勢湾に抜けテニアン島西飛行場に帰投した。
この日の天候が「全曇」でなかったとしたら、津市街地への爆撃はなかったにちがいない。天候さえ良好であれば第1目視照準爆撃地の津海軍工廠と三菱重工業名古屋機器製作所が猛爆を受けていただろう。
この日の攻撃によるB29爆撃機の損失は「0」機である。
 ▼玉置町の惨状▲
 ◆「津市北堀端1866、竹材店、関竹の主人・内山竹次郎さん(50歳、年齢は空襲体験当時のもの、以下同じ)は師範学校(現在の津市市役所の在るところ)の北東かど(いまの公民館付近)の警防団第3分団詰め所にいた。
「空襲だー」との望楼からの声を聞くより早く、目の前の裁判所に爆弾が降ってきた。団員はくもの子を散らすように退避した。
道路の向こう側の空き地へ走る者、ヘナヘナとその場に座り込み、はう者…内山さんは詰め所の防空壕に飛び込んだ。防空壕の床は雨水が深かった。ぎっしり満員でもう入れない。
町内会長で第3分団長の小沢憲夫さん(54歳)と肩を組み合ったまま、みんなの尻に頭を突っ込んでいた。
「頭の上を列車が走りすぎるようなショック」からさめると小沢分団長はぐったりとしていた。「分団長!小沢さん!」腰にまわした手をゆすってみた。小沢さんは死んでいた。団員の何人かが走った空き地の回りには同僚たちや避難中の人たちが地面にたたきつけられて変わり果てていた。
 ◆津市玉置町1897、弁護士、山田寛さん(57歳)方。午前10時30分頃の空襲警報で、寛さんは家にいた妻千代さん(50歳)二女、幸子さん(22歳)=実践女学校教師=、四男、正武君(16歳)=津中4年=、五男、正国君(14歳)=津工業高校1年=の4人を庭の防空壕に退避させた。
自分は部屋に残ってラジオにかじりついていた。「敵大型機数目標、志摩半島を北上中」。その瞬間、両耳をなぐられたような衝撃とともに、窓ガラスが吹っ飛び、何も見えなくなった。近くの家が倒れる音にドーッという広範な地鳴りの音がまじる。砂煙の中を手探りで家族のいる防空壕へ入った。同時に家の前の通り、隣の家につぎつぎと爆弾が炸裂した。
離れて落ちる爆弾はズズーン、ドカーンと音が聞こえるが、至近弾はドドーッと地響きがするだけ。いつの間にか防空壕の一番奥に一家5人が頭を突き合わせてひとかたまり、地響きがするたびに抱き合って息を殺した。
自宅防空壕の中で息を殺していた山田寛さん一家5人は、4、5波の爆撃にも奇跡的に全員無事だった。防空壕の盛り土は爆風にとばされ、5人の頭上には竹格子があるだけだった。空はもうもうたる砂塵で夕暮れのように暗い。
見渡す周囲には家は一軒も建っていなかった。みんなホーッと深い息を吐いて床にペタンと座った。体中ほこりまみれの女の人が、防空壕をのぞき込み、わけのわからぬ声をあげて髪を振り乱して廃墟の町へ駆けていった。無事と思った家族の中で四男、正武君が背中に怪我をしていた。爆弾の破片が伏せていた正武君の背中をかすめて突き抜けていた。
(次回に続く)
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