特別寄稿

【文化的かつ科学的な環境ツーリズム】

 

日本では長雨と台風による日照不足に見舞われたが、7月25日のAPFによると、熱波に覆われた欧州では、23日にはフランス各地の都市で最高気温の記録を更新、ワインの主要産地ボルドーでは41・2度を記録した。また、24日にはベルギーのクライネブローゲル基地で国内最高気温となる39・9度を観測し、1947年6月に観測された記録を更新。ドイツでは、西部ガイレンキルヒェンで40・5度を観測、これまでの国内最高気温40・3度を上回った。そして、オランダでは南部のギルゼ・レイエン基地で38・8度を観測して、75年前の記録を更新、25日にはパリやリンゲン(ドイツ北西部)で42度を超えた。
昨年の様子は以前、この連載で掲載した【ヒートドーム】に記録してあるが、今年の欧州への熱波到来は、ひと月足らずで2度目である。しかも高温だ。英国気象庁によると、英国でも25日に暑さがピークを迎え、20004年8月にフェイバーシャムのケントで観測された国内最高気温38・5度を超えたとし、熱波への対応として、英鉄道会社ネットワークレールは列車の減速運行を発表。フランスの鉄道でも同様の措置が取られている。
古来、避暑地も非日常的なサイトシーイング(観光)のディスティネーション(目的地)とされている。好き好んで暑い場所に行きたい人はそう多くはない。どちらかといえば、日本の文化観光についてもそうだ。暑い時期は弱い。対策として、木陰、噴水、ミストシャワー、打ち水、氷細工、そして風鈴などといった涼をよぶ演出が日本の夏には必要になる。なにしろ、日本の夏は欧州と違って高温の上に湿度も高い。ウチワで扇いでも来るのは温風、熱中症リスクもシビアである。
この点において、調湿性のある日本の木造建築は、風を通すことによって、その性能を発揮する。木材に含まれるセルロースやヘミセルロースには、〝水酸基〟と呼ばれる水分子を引き寄せる部分があり、ここに水分が吸着したり、離れたりすることで、木材が調湿機能を持つからだ。
専門誌によると、8畳間程度の部屋で25℃で湿度が60%のときに室内の空気が含む水蒸気量は、厚さ4ミリで1平方メートルの広さのヒノキ板が吸収できる水分量に相当するという。
また、平成26年度の国交省の事業報告書でも、ヒト存在下の無垢スギ材とクロス貼り内装との相対湿度が、およそ50%程度になるとの調湿効果が実験によって示されており、この事は林野庁の受託事業として、(一社)木を活かす建築推進協議会がまとめた『木の良さデータ整理検討報告書-平成28年3月』にも引用されている。
つまり、適切に湿度が管理された木造建築は、夏の観光コンテンツ足り得るという事だ。これこそまさに体験型である。だが、湿度計などで目に見える形にする必要はある。でなければ、風鈴の音同様、気のせいだという事になってしまうからだ。水蒸気のふるまいは科学的根拠なのである。
ちなみに、風鈴の音に涼を感じるには幼少期における擦り込みが必要で、外国人には通用しないそうだ(出典…NHKチコちゃんに叱られる)。心理的なものである。
(O・H・M・S・S「大宇陀・東紀州・松阪圏サイトシーイング・サポート」代表)

(前回からの続き)
アメリカ軍の空海救助作戦について述べる。
第20陸軍航空隊は1945年4月、4ERS、第4緊急救助隊を設置する。空からと海上での救助態勢を整え、マリアナの基地から日本本土各地の空爆に向かうB29の飛行コースに沿って次の艦艇及び航空機が配備された。
潜水艦。海上艦艇。海軍飛行艇、海上ダンボ〔救難用のPBY「カタリナ」双発水陸両用飛行艇〕。スーパー・ダンボ。
陸軍航空隊飛行機〔スーパーダンボ〕、捜索救助を専門とするB29。その長大な航続力を生かして遠方へ進出、不時着水搭乗員上空を長時間飛び続け、救命ボート、食料品や「ギブソン・ガール」のような無線機器の投下や、潜水艦、艦艇や飛行艇を無線誘導で海上の搭乗員の救助を求めることができた。
潜水艦と水上艦艇はその日の作戦が終わるまで、指定位置に留まり、海軍の飛行艇と救難専用のB29は位置ごとに指定された時刻から、最後の攻撃機が通過し終わるまで、滞空哨戒することになっていた。
シャーマン機内には緊急に機外脱出を塔乗員に告げるベルがけたたましく鳴り響いていた。シャーマン機は野洲市から一直線に伊勢湾方向へと飛行し、津市上空にさしかかった。津市民が見上げる中、シャーマン機の尾部から一名の搭乗員が機外脱出をした。白いパラシュートが開いた。
非常時に際し、B29の搭乗員はどのようにして、機外脱出するのであろうか。次にその手順を記す。
「B29機外脱出手順…機長が機外脱出の必要性について決断する。警報ベルの短く切れる音を連続して鳴らし、出来る限り素早く機から脱出の準備をするよう命令を出す。そうすることで、搭乗員は脱出準備の時間が得られる。緊急事態が最初に発生した時点で搭乗員に警告すること。
機外脱出しなくても安全に緊急事態に対処できることが判れば、脱出準備の命令は取り消してもよい。できるなら、機の高度を上げること。機長はインターホンか、警報ベルの連続音により、機外脱出の本命令を出す。 脱出命令が出るまで脱出してはいけない。全搭乗員は、いつ、どこで、どのようにして機外脱出をするのか知っておくこと。脱出が安全かつ適切に行われることを確実にするための唯一の方法は地上で、よく繰り返して行われる脱出訓練である。実際、脱出の手順を予行演習で、できるだけ何回も訓練しておかなくてはいけない。特定の搭乗員の手で明示された計器類の破壊の模擬訓練も含まれていることを忘れないようにすること。〔著者注。ここでいう「計器類とは当時世界最高水準にあった『ノルデン爆撃照準器』類を指すものと思われる。破壊用の斧も装備されていた〕
下記の図〔著者注。「下の図」は紙幅の都合により本稿には掲載しない〕は各搭乗員に使用される出口経路及び脱出用ハッチを表している。全搭乗員と一緒にあなたの部署を学び、統制のとれた手順を練習しておくこと。この図はそれぞれの搭乗員によって使用されるように勧められている出口である。各搭乗員が脱出する順序を指示する番号が明示してある。前部の爆弾格納庫は前部の搭乗員室の搭乗員の代わりの出口である。機中央の機関銃手達は後部出口を代わりの出口として使用する。レーダー士の代わりの出口は後部の爆弾格納庫である。尾部機関銃手は自分の機銃室のハッチを代わりの出口として使用する。海上では、尾部機関銃手は非予圧部から自分一人用の「救命ボート キット」を取り、尾部出口より機外脱出する。海上で機外脱出警報が出た時は、自分の部署近くに設置されている一人用「救命ボート キット」を取り外し、パラシュート〔タイプQAC・AN6513─1A型〕の縛帯の止め金具に取り付ける。「救命ボートキット」の角を開け、ひもの端を引っ張り出し、パラシュートを縛帯の下へ通す。それから、救命胴衣のひもの輪に金具で留める。搭乗員はお互いに全てのひもや「救命ボート キット」がきちんとしているか、また適切に調整されているのか、点検しておくこと。
機長と副操縦士用の「救命ボートキット」は、各々の座席の丁度後ろ側の防弾装甲板の後に備えてある。
航空機関士用の「救命ボートキット」は前上部のハッチと通路ドームライトの間の室内の天井にひもで縛り付けてある。
航法士、無線士、爆撃手用の「救命ボートキット」は下部前方銃座と車輪格納昇降段の間の床にしまい込まれている。レーダー士〔随意の機関銃手〕用の「救命ボートキット」は、丁度尾部かつ後方の不時着水用のハッチの高さのところの左側の壁にひもで縛り付けてある。
尾部機関銃手用の「救命ボート キット」は下部銃座近くの丁度後の右の壁にひもでくくりつけてある。〔注。以上述べた手順のいずれかが、個々の飛行機に装備されている。積み込みの違いや装弾又はその他の理由により適用されない時は、訓練を変えること。個人装備官の助けを借りて、自分の飛行機で安全に活用できると判っている脱出訓練を考えておくこと。実行できる脱出手順を確立し、それからそれを繰り返し訓練して、習得することが重要である〕。  (次回に続く)

香久山古墳を示す石碑

香久山古墳を示す石碑

火災で焼失する前の天益寺本堂

火災で焼失する前の天益寺本堂

桜の季節が過ぎ、新緑が雨に映える国道166号線。先月、詰めかけていた桜見物の車の姿は一台もない。今回は大宇陀商工会訪問である。
だが、前日、会長の体調が優れないとの報を受け、ディスティネーションを急きょ変更、商工会のメンバーの一員で、観光協会副会長でもあったお寺の住職を訪ねる事にした。同行者は本居宣長記念館館長、三重ふるさと新聞社長、そして旅館の八千代である。
正午前に大宇陀に入った私達は、同じメンバーである醤油屋さんと、会長である奈良漬屋さんに声をかけ、『天益寺』へと向った。天気が良くないので『宇陀松山城』は断念した。かつて濡れ落ち葉で滑った経験があるからだ。
古くは阿騎野とよばれ、宮廷の狩場だった大宇陀は、江戸時代前期に宇陀松山藩が置かれ、織田信長の次男織田信雄が1615年から藩主になり、1695年まで織田氏が藩主を勤めていた。その3代藩主・織田長頼が眼病平癒祈願で参篭したのが、1313年創建の天香久山『天益寺』である。
立派な竹林に囲まれた小高い香久山に建てられたこのお寺は、神仏習合によって生まれた神宮寺であり、元伊勢と呼ばれる阿紀神社に付随する仏教寺院だ。樹齢300年を超える枝垂れ桜も関西では名が知れており、コンサートなども開催したりと、いわゆる観光寺(良い意味で)の先駆者とも言える存在だった。
しかし、1999年1月、本堂、大威徳堂、倉庫の三棟が不審火で全焼した。そのありし日の姿は、住職が木戸を開けて通してくれた仮本堂の中で、新たに寄贈あるいは隣寺が救い出してくれた仏さんたち正面の額の中に拝む事ができる。牧歌的な美しい佇まいだ。
この合掌造りのお寺は再建途上にあるそうで、既に基礎は出来上がり、特徴的な茅葺き屋根の建築許可も下りたそうである。
気さくな住職は、『大亀和尚民芸館』と『香久山古墳』を案内してくれた。この民芸館は、1980年に大徳寺如意庵の元住職、立花大亀和尚(1899─2005)が再興した『松源院』(拝観謝絶)に付随する博物館で、和尚が所持する墨蹟、茶道具などのコレクションや民具などを保存・公開することによって、鑑賞・学術研究の資とし、文化振興を願ったものである。
展示品の入れ替えは春秋2回だそうで、今は川喜田半泥子の作品や、アポロ17号のジーン・サーナン船長から寄贈された『月の石』にも出会う事ができる。正直、この地にあるとは驚きだ。
古墳はこの民芸館の裏手にある。松源院の名を冠した『香久山古墳』の築造年代は6世紀後半。ヤマト王権による海路確保を背景とする船形埴輪が出土した松阪の宝塚古墳(5世紀前半)よりも若い。
1983年の発掘調査によると、『香久山古墳』は外部直径18メートルの円墳だそうである(前方後円墳との説もある)。あいにく開口部は格子戸で閉じられていたが、過去と現在を結ぶ存在感ある古墳だった。
香久山を後にして、重要伝統的建造物群保存地区『宇陀松山』に戻り、古民家を改装した蕎麦屋で遅い昼食をとると、私達はまちづくりセンター『千軒舎』を訪ねた。ここは薬屋、歯医者として使われていた旧内藤家の建物を2003年に改修した伝統地区の改修モデルハウスであり、まちづくり拠点、訪問者へのガイダンス、ミーティング会場として利用されているそうである。ちょうどこの日もミーティング場として機能していた。
だが、訪問者に提供する情報量はとても少ない。宇陀松山城の出土品はいくつか展示してあるが、重要伝統的建造物群保存地区の歴史や、一軒一軒についてのガイダンスはなく、物販もなかった。
帰路は再び166号線で、吉野村の『ひよしのさとマルシェ』に立ち寄った。残念ながら、一足違いで前回お会いした店長にはお会いできなかった。私たちは、本居宣長記念館の館長が撮った高見峠にある宣長の歌碑(1995年東吉野村建立)の立体加工写真を贈り、奈良を後にした。
今回は、奈良市行きの予定にはなかったので、比較的時間をかける事ができた。おかげで、隣接都市とはいえ所属する経済圏が違う為に、こちら側では未だ知られていない旧跡が沢山ある事がわかった。
もちろんそれはあちら側でも同じ事だ。インターネットが発達したとはいえ、テレビやラジオ、新聞社に縄張りがある以上、地域間交流は未だ知る人ぞ知るの域を出ないのである。
(O・H・M・S・S「大宇陀・東紀州・松阪圏サイトシーイング・サポート」代表)

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