女の落書帖

ウォーキングするつもりで家を出ても、ついついだらだら歩きになってしまう。運動というより散歩の速度。でも、それはそれで周囲がよく見え、季節の変化を草木の様子で知ることができる。
歩道の端っこに生えていたブタナやマンテマは姿を消して、夏草がぐんぐん丈を伸ばしている。ヨモギは昔から知っているけれど、風に揺れる腰丈ほどのイネ科の草の名が分からない。コヌカグサだろうか。ネット図鑑で調べてもイネ科はよく似ていて決められない。
ヨモギやイネ科の草は地味だが、園芸種かと思うほど派手な雑草も見る。紫のヤナギハナガサや黄色のモウズイカなどは花瓶に挿したいぐらい華やかなのに、環境の悪そうな路肩で花を咲かせている。
足元を見れば、ヒメツルソバがピンクの金平糖のような花を並べている。隣にあるのはオオバコだが、従来のオオバコとは葉の形が違う。
どれも、私が子供の頃には見かけなかった草だ。これらの草は近年増えた帰化植物だろう。外国から持ち込まれたものが、日本の環境に順応して勢力を伸ばしている。貨物に付着してきたものか、園芸種として庭に植えたものが広まったのか。
人が移動すればほかの物も移動する。植物も動物も細菌もウイルスも。グローバル化は様々なものを運ぶ。良いことばかりではなさそうだ。   (舞)

新聞の川柳欄を楽しみにしている。川柳は人や社会を見つめ、風刺したりユーモアをまぶしたり。俳句より直接的な表現をするところが面白い。今朝の川柳欄には政治ネタが多かったが、私はそういうものより日常生活を切り取った川柳が好きだ。読んでいてくすっと笑ったりよく見ていると感心したりする。
今朝目に留まった一句は「咳をしたからひとり」。放哉の「咳をしても一人」のもじりで、一人居の静けさの中に響き渡る咳の孤独感が、コロナ禍の人間関係に置き換えられている。
川柳の魅力はこんな風に自由であることだ。五七五の十七音に自由な題材、自由な考え、自由な表現をはめ込み川柳になる。ただ、自己満足に陥らないこと。他人が読んで不快になったり、意味が伝わらなかったり、自慢話に聞こえたりではいけない。共感が得られよう客観的に句を見る姿勢が大事だと思う。
保険会社のサラリーマン川柳にはいつも感心する。こういうものの見方があったのかと気づくこともしばしばだ。今年は「会社へは来るなと上司行けと妻」がコンクールの一位で、コロナ時代を背景にサラリーマンの悲哀を表現し笑わせる。
こういうコロナネタは十年も経てば何のことかわからなくなるだろう。でも時事ネタがあるから川柳はいつも新しい。今を生きる人に寄り添える。(舞)

カレーを食べながら夫が言う。「カレーの嫌いな人なんておらんやろな」「嫌いな人もいると思うわ」毎回同じ会話となる。
レストランでアルバイトをしていた学生の頃、カレーライスを食べられない人が存在すると知った。そういう人向けにハヤシライスに変更できるカレー食事券が販売されていた。
とはいえ、私の周りにはカレー好きが多い。私も家で作る普通のカレーが好きだし、コロナ前にはインドカレー専門店にもよく行った。カレーにナンが合う。
ところが、本場インドでは、ナンをあまり食べないそうだ。食べてもあのしずく型ではなく丸いナンだという。たいていはチャパティという発酵させないパンかライスをカレーに合わせるそうだ。
それを知るまで、私はインドでは毎日カレーとしずく型ナンを食べていると思っていた。旅番組などで、皿のライスとカレーを指で混ぜて食べているインドの人を見ても、ナンが主食と決めつけていた。
これは昔の「フジヤマ、ゲイシャ、スシ」と同じで、よくある先入観。ものを知らないと勝手に思い込む。テレビなどで情報を得ても、思い込みを修正しない。
インドのナンに限らず、いろんなことを私は先入観というフィルター越しに見ているだろう。知りたい。謙虚に情報を取り入れて、柔軟にものごとを考えたいと思う。 (舞)

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